映画『サンダカン八番娼館・望郷』の原作者として有名なノンフィクション作家、山崎朋子(1932-2018)。
女優を目指し(この方の本の表紙はたいていご自分の写真です。自信があるのですね)、上京して生活のため小学校教師をしていましたが、ロシア語を学んでいたことで朝鮮から来た東大の大学院生と出会い、同棲します(のち離別)。
そのロシア語を学ぶきっかけになったのが、なんと良平さんからの言葉。
『サンダカンまで わたしの生きた道』山崎朋子著 朝日新聞社 2001年 にありました。
1954年頃、良平さんの所属していた新演劇研究所の舞台が自分の「思想的にも演出・演技的にも親愛感をおぼえ」、知り合いの伝手で放課後の夕方、稽古を見学に通っていたそうです。
そんな中、良平さんから新演劇研究所の有志で小さな劇団を作るから入らないかと誘われ、スタニスラフスキー・システム(どういうものかはご自分で調べてください!)の読書研究や発声練習・訓練をやり、のち小さな公演をやることになったとか。
管理人の想像ですが、良平さんも新演劇研究所に入る前は故郷の銚子で小学校の代用教員をやっていましたから、教師の仕事で疲れているだろうに随分熱心に見学に来るなあと親近感がわいたのではないでしょうか。
しかし、公演の反省会で良平さんに「役者には向かない」と言われてしまいます。
「君は芝居を頭で演るから駄目なんだ。芝居は〈頭〉でなくて<体>で演るんだよ。あなたは頭が良過ぎる。役者には向かない。戯曲を書くとか演出をするとか、そういう方向を選んだ方が良いんじゃないのかな」
その夜、山崎朋子は泣きながら帰宅したそうですが、「スタニスラフスキー・システムを十全に身に着けていない」からそのように言われてしまうのだと思い、「スタニスラフスキー・システムの書物を眼光紙背に通るまで読みこむと同時に、人間のさまざまな生活を体験することが必要だ」「〈第一歩から学びなおそう。これまでは《教師の眼》で見ていた学級の子どもたちの家の生活も、これからは《演技者の眼》で視ることにしよう。そして更に、文学や演劇だけでなく、ほかの分野の本も読むことにしよう!〉」とロシア語を学ぶことになったそうです。
「頭で演るから駄目なんだ」「役者には向かない」とかなりはっきり言われたにもかかわらず、本を読みこんで勉強しようと思うところがすでに頭で考えているということだし、いくら生活のための学校勤めとはいえ、教師が《演技者の眼》で子どもを見ていてはあまり望ましくないのではないかな。。と思いますが。
当時の山崎朋子は22-23歳という若さ、そう思ってしまうのは仕方ないとしても、70歳近くになってこのような文章を書いていて、そのあたりの自覚は無かったのでしょうか。
結局刺傷事件がもとで女優の道をあきらめ、女性史の研究家・ノンフィクション作家になるわけですが、良平さんがはっきり言っていなければ、もしかしたら映画『サンダカン八番娼館・望郷』はなかったのかもしれません。。
すみません、ちょっとこじつけでした。
今後もまた、ゆかりの人々を少しづつご紹介していきますね。