難解な映画です。。武智鉄二が映画で何を主張したいのかずっと考えていたんですが、
『芸術至上主義に走ると妻を寝取られるぞー』これって武智鉄二の体験から・・・?!たぶんちがうだろうなあ。
もとい『日本の伝統芸術は風前の灯火である』
『他国から侵略を受けるということは伝統芸術も滅ぼされる』
ということかなあと。
単純過ぎる見方だよなあと思いますが、そう解釈するより仕方なくて。
興行収益を意識せざるを得ない映画会社がつくる映画ではないので、はっきり言って面白くはありませんが、『砂の女(1964年)』を撮った勅使河原宏監督のようにもともと映画作家ではない人がそれまでの人脈や思想、経験をつぎこんで作った映画、と観ると興味が持てると思います。クレジットされているスタッフで音楽の人の多さと下着デザイナー鴨居羊子さんの名前に驚きました。
最初の良平さんが彫った能面が生身の人間の女(柴田恒子)になって立ち上がって舞うところは非常に自然な流れに見えて、違和感がなく映画の世界にすっと入っていけました。
後日blogに詳細を書きますが、武智鉄二は能や歌舞伎の専門家で、歌舞音曲が迫害された戦時中でも私財(実家がかなり裕福だったらしいです)を投じて歌舞伎俳優を支援したという筋金入りですから、この場面だけでもかなりきっちり指導したのではないかと思います。
柴田恒子は美人とは言えないのですが、何かの折に美しく見える瞬間があって、華奢な体型で声もきれいで儚げな幻の女のようで良かったです。
後半は良平さんが彼女の脚を背中で逆さにかついで砂丘を歩くのであんまりグラマラスだと、観客が胸ばかり見ちゃいますからね。
砂丘(『砂の女』ロケ地と同じ浜岡砂丘)のシーンはまんま『情婦マノン(仏・1950年日本公開)』なんですが、良平さんのエキゾチックな風貌はピタリ合ってました。
で、そもそもなんで良平さんに話がきたんだろう?
歌舞伎→松竹、松竹→良平さんは1960年代後半に松竹映画によく出てるけど、他にもどこで接点が?と手持ちの資料を見ていたら、映画デビュー前に所属していた劇団「新演劇研究所(新演)」の観劇パンフに武智鉄二が寄稿しているではないですか。
新演の主宰、下村正夫先生(良平さんの恩師ですので管理人も下村先生とお呼びします)と武智鉄二が大学の同級生だったそうで、卒業してからも交流があったそうです。
本作のキャスティングの経緯について載っているものが見つからないので想像するしかないのですが、おそらく撮影中は下村先生の話を二人でしていたんじゃないかなあ。
武智鉄二については、次回書いてみますね。